5.アイルランド




9月17日(木)



リヴァプールYHAは、朝食つきだ。少し他より高めの料金かなと思った(17.95ポンド、約2800円)が、これだけしっかりした内容の朝食が付くなら、高くは無い。例によってフルコースの英国式朝食だ。フランクフルト・ソーセージ、ベーコン、ビーンズのトマトソース煮、パン、シリアル等のバイキング。食べ放題だからと言って、そんなには食えない。程々にして切り上げる。



今日は、今回の旅行で最も気を使う日になりそうだ。と言うのは、列車を乗り換え、船を乗り換えて、アイルランドまで行くからだ。例えて言うなら「箱根の関所越え」である。列車が遅れて船に乗り遅れる事が無いように祈るだけだ。



朝食後、タクシーを頼んでYHAを出た。10:13発の列車に乗るには余裕があったので、ガイドブックにリヴァプール市内の見所として紹介されていた、リヴァプール大聖堂とリヴァプール・コスモポリタン大聖堂を見ておきたいと思い、運転手にそちらを回ってくれるよう頼んだ。



運転手は、「写真を取るんですね?」と、心得たものだ。リヴァプール市内は信号機が多く、交通量も多い為、信号待ちが多い。それでも順調に、しかし、さほど感動する事も無く、2つの大聖堂を見て、リヴァプール・ライム・ストリート駅に着いた。



タクシーのメーターは、7.20ポンドを指していたが、「10ポンドどうぞ」と言って渡すと「そんなに呉れるんですか?」と、恐縮していた。生活に疲れた感じの男に親切にされたら、普段は締まり屋の私も、少しは気持ちが大きくなるものだ。



リヴァプール駅に着いて、電光掲示板で出発時刻とプラットフォームを確認した。「10:13、4番線発は時刻通り」と出ていた。この列車に間違いないと思い、4番線に行こうとして改札で切符を見せると、「この切符は此処ではない。地下のホームだ」「何番線ですか」と聞くと「一つしかないよ」と言う。



私は不思議に思いながらも、地下への入り口を探して、下りていった。そこには確かに古くて、くすんだプラットフォームがあった。しかし不思議な事に、上り方向のホームしかない。地上の駅で、綺麗に輝いていた電光掲示板からは、想像できないほど薄暗くて、汚れたホームであった。



それでも10:13発の列車が2両編成で無事到着した。この列車で終点のチェスター駅(Chester)まで行く。その43分間に止った駅の数は16箇所。なんと一駅平均3分間足らずである。聞いた事のある名前は一つも無かった。線路の両脇は雑木林で、見るべき物は無かった。昔の東武・野田線のようだ。



チェスター駅に定刻の10:56に到着。乗り換えの列車は11:16分発だから20分間の待ち合わせだ。この間に、また事件が発生!私は大きなバッグを、ベンチ横の柱の前において、トイレを探しに行った。10mほど離れた所で、バッグに背を向けていた、ほんの1分間に、バッグが消えてしまったのである。



そう言えば、ウィンダミアのYHAで同室だった人に、「リヴァプールは泥棒が多いから、気を付けた方が良いよ」と言われていたっけ。それにしてもたった1分間に、あの大きなバッグを何処へ!私はベンチに座っていた女性に、もしや心当たりが無いかと「私のバッグがなくなったんですが、知りませんか?」と聞いてみた。



すると彼女は「警備の方が持っていきましたよ」と言うではないか。そういう事だったのか。私のちょっとした不注意だったのだ。駅員に事情を話すと「あなたのバッグだったのか」と言って、警備室へ案内された。「今後気を付けて下さい」とご注意を頂き、バッグは戻された。お陰でトイレに立ち寄り、売店で昼食用のサンドイッチを買う事が出来ました。



11:16チェスター駅発は幹線らしく、座席指定で、列車のスピードも速かった。右側にはずっとアイリッシュ海が見えている。12:53ホリーヘッド駅(Holyhead)着まで、その光景は続いた。アイルランドに渡る港の駅まで、無事・定刻にたどり着いた。



鉄道の駅を下りて、建物の中を数百メートル歩いて行くと、すぐにイミグレイションの窓口があった。そこでインターネットで予約してあったチケットを指し出し、大きな荷物を預けると、乗船券と荷物預かり証をくれた。更に進むと、X線によるボディーチェックだ。飛行機の時と同じである。



無事にチェックを通過すると、そのままバスに乗せられ、バスに乗ったままフェリーに乗船。此処で開放されて、めいめいが船内の好きなところに陣取る。既に先客が大勢いて、昼食の真最中であった。驚いた事に私の周りで食べている人は、全員が例のフィッシュ&チップスであった。油をタップリ含んだ物を、老人達が美味しそうに食べていた。



私は、チェスター駅で調達済みのサンドイッチだ。しかしこのサンドイッチのボリュームがあったこと!紙に包まれていたので、良く分からなかったが、紙を開いてみると、その大きさに圧倒される思いがした。ソーセージ、ベーコン、卵、野菜と考えられる物は何でも挟んであった。PM2:00を回っていて、お腹が空いていたので、何とか平らげる事が出来た。



アイルランドに上陸したら、早速必要になるユーロを用意する為に、船内で両替を行った。幸いな事に、トラベラーズ・チェックから現金への両替は、手数料無しであった。13:50発のフェリーは17:05に、予定通り、アイルランドのダブリン港(Dublin Port)に着いた。



下船して、手荷物を受け取った後、残された課題は、市内に予約済みのホステルを探し出すことである。港の職員に住所を示すと「バスが最初に止る所で下りてください。運転手にも言っておきます」と親切に教えてくれた。バスから下りる際に運転手が「あそこの道を右折して暫く行った所だ」と教えてくれた。それから2回目に道を尋ねに立ち寄った所が、ラッキーな事に予約ホステル(Paddy’s Palace Dublin)の受付であった。



    

                              ホステル(Paddy’s Palace Dublin



チェックインを済ませ、あてがわれた部屋に行くと、若いオーストラリア人女性が荷物の整理中であった。「10日間のバックパッカー・ツアーが終わって、明日ポーランドへ立ちます。両親がポーランドからオーストラリアへの移住者なんです」と言う。



夕食をとって再び部屋に入ると、別のオーストラリア人女性と、イスラエル人女性がいた。二人目のオーストラリア人も、同じツアーに参加していたそうで、明朝早く、スコットランドへ向かうと言う。随分咳をしていたが大丈夫かな。新型インフルエンザでない事を祈る。そしてイスラエル人は、今日の深夜便でパリを経由し、イスラエルに帰ると言う。それぞれが帰り仕度で忙しそうであった。




9月18日(金)曇り



朝食付きとは言っても、シリアルと食パンだけである。それでも間に合わせにはなる。午前8時にツアー参加者はホステルのロビーに集合。全部で18名。男性7名、女性11名。その内カップルが2組。1組は若く、1組は熟年のカップル。



国別では、日本から小生が一人、南アフリカから女性が1人、クロアチアから若い方のカップル、カナダから熟年のカップル、ニュージーランドから女性2人、男性2人の4人、残りの8人はオーストラリアからである。圧倒的にオーストラリア人が多い。聞くと、やはりアイルランドとの繋がりが濃いようである。例えば、アイルランドがジャガイモ飢饉に襲われた時、先祖がオーストラリアに移住して来たとか。



今日は、まずダブリン市内を簡単に、車窓から見学する所から始まった。既にオーバーコートを着ている人も居る。出勤時間と言うこともあって、町を歩く人の足取りは速い。首都ダブリンの人口は、120万人と言うから北海道の札幌並みか。面積も北海道位だから、規模的には良く似ている。



次に見学したのは、ドロヘダ(Drogheda)の聖ピーター・ローマンカソリック教会(St. Peter’s Roman catholic Church)。この教会には、1681年にロンドン塔で首を落とされた、聖オリバー・ブランケットの頭が保管されていると言われている。その頭をガラス越しに見たが、はっきりとは見ることが出来ず、それが聖オリバーの頭だという確信は持てなかった。道中、最も美しく均整の取れた城と言われる、スレイン城(Slane Castle)を見た。



                     

聖ピーター・ローマンカソリック教会                                  スレイン城



そして次に訪れたのは、先端が破壊された尖塔ラウンドタワーが残る、モナスターボイス(Monasterboice)。この教会は5世紀に建てられた物で、その跡には、ひときわ高いハイクロスがある。アイルランドのカトリック教の十字架は、単に十字架ではなく、円形を組み合わせたものを、用いているのが特徴である。



                    

            モナスターボイス−1           モナスターボイス−2



夕刻、ベルファストを通過して、BC3000年の石造りの砦と言われている、円形遺跡:グリアナン・エーリッヒ(Grianan Ailligh)を見学した。日本のように木造建築だと、BC3000年の建築物は何も残らないが、石造だと残っている。そして、イギリス、アイルランドにはこの種の遺跡が多い。ただ、エジプトのピラミッドを見た者にとって、これらの遺跡が特別の感動を与えないのも事実である。



    

              グリアナン・エーリッヒ



その後、宿泊地のロンドンデリー(Londonderry)のホステルへ。狭い部屋に、2段ベッドが3つの6人部屋に、女性3人、男性3人。狭いキッチンに、狭い談話室と今まで泊まった中では、最も狭い方のホステルだ。それでも山小屋のことを思えば、ベッドがあるだけ、まだ良いか。



夕食は皆で近くのパブ(大衆酒場)へ出向いた。日本の大衆酒場、白木屋のアイルランド版だ。それぞれが思い思いの品を注文して食べた。私はステーキにジャガイモのメインディッシュと、アイルランドで有名な、ギネスビールを楽しんだ。合わせて11ポンド(約1400円)。



           

            ロンドンデリーのパブ



此処「北アイルランド」はアイルランドの一角にあるが、英国領のため通貨はポンドだ。料理はマズマズの味。ギネスビールは、所謂「黒ビール」と言うところ。私にはラガービールの方が飲みやすかった。若い人達は深夜まで懇談していたようだが、私は9時に失礼した。




9月19日(土)小雨後晴れ



今朝は、ロンドンデリー市内の見学から始まった。昔の城壁の上を歩きながら、ガイドの説明を聞く。ガイドのナチュラルスピードの英語は、吾人にとっては速すぎて、「アイルランドと英国間の、そしてプロテスタントとカトリック間の、壮絶で悲惨な歴史を語っている」位しか理解できない。



           

             ロンドンデリーの城壁



最後に「何か質問ありますか」の「エニークェスチョンズ?」だけははっきり聞き取れるが、細かな内容が解っていないので、質問の仕様が無い。唯一つ私が質問したのは「アイルランドでは名前の前に『お:O'』が、付いていることが多いですが、どういう意味があるのでしょうか」と言う事だった。



答えは「誰々の息子と言う意味があります。オ・コーナー(O'Connor)、オ・ハラ(O'Hara)等がそうです。他にもMacFitzがあります」と言う。辞書を調べてみると、オ・コンネル(O’Connell)オ・ブライエン(O’Brien)マッカーサー(MacArthur)、マクミラン(MacMillan)、マクドナルド(MacDonald)、フィッツウィリアム(Fitzwilliam)等が出てきた。このような名前の人は、アイルランドに先祖を持つ人であることが判る。



「ロンドンデリー」と言う名は耳にした事はあったが、それが北アイルランドに在る都市名だと言う事は知らなかった。私がこの名前を聞いたのは、歌の名前だったような気がするが、はっきり覚えていない。



ネットで検索すると「ロンドンデリーの歌、アイルランド民謡」、同じ曲に別の歌詞を付けた「ダニーボーイ」等が出てきた。やっぱりそうだったのだ。ロンドンデリーの歌のゆったりとした、のどかな曲と悲惨な歴史が余りにもかけ離れていて、私の記憶を混乱させていたのだ。アイルランドとスコットランドは、イングランドに近かったと言う事で、似たような歴史を持っている。いずれも散々イングランドに蹂躙された歴史である。



ロンドンデリーでの朝のウォーキング・ツアーの後は、アイルランドの北岸にある、コーズウェイコーストを巡る観光である。まず我々が目にしたのは、ダンルース城(Dunluce Castle)。この城は14世紀に建てられ、もともとは要塞として使われていたもの。周囲は断崖になっていて天然の地形を巧みに利用した難攻不落の要塞であった。17世紀に当時の領主であったスコットランドの貴族、マクドネル家のマナーハウスとして改築されたものである。



        

             ダンルース城   



次に訪れたのはジャイアンツ・コーズウェイ(Giant’s Causeway)。ここでは無数の6角柱の石柱群が見られる。これは吹き出したマグマが、徐々に固まる時にできたものである。世界的にも十指に入る奇景として知られており、世界遺産にも登録されている。



          

             ジャイアンツ・コーズウェイ 



本日最後の訪問先は、キャリック・ア・リード・ロープ・ブリッジ(Carrick a Rede Rope Bridge)。これは断崖と小さな島とを結ぶ、長さ20m程の吊り橋である。私は此処を渡る時に突風に会い、とうとう大事にしていた帽子を吹き飛ばされてしまった。ニュージーランドで飛ばされた時は、幸運にも見つかったが、今回は断崖絶壁の海中だ。諦めるしかない。


 

           

         キャリック・ア・リード・ロープ・ブリッジ



吊り橋から戻った所で昼食だ。同席したオーストラリアとニュージーランドの女性2人は、食前酒にフルボトルのワインを取り、二人で飲んでしまった。顔色一つ変えないで。その豪快さに目を見張る。小生はトマトスープに小さなパンを2個で終り。



今夜の宿泊はベルファスト(Belfast)のホステルだ。ベルファストと言えば、沈没した豪華客船のタイタニック号は、アイルランドのベルファストで建造され竣工している。そしてその処女航海は、1912年にイギリス南岸のサウサンプトン(Southampton)を出航し、フランスのシェルブール(Cherbourg)を経て、最後の寄港地がアイルランド南岸のコーヴ(Cobh)港であった。タイタニック号はアイルランドと深い関係があったのだ。



宿舎に入って、キッチンを覗くと台湾人10人のグループが食事をしていた。私が日本から一人で来たと分かると、「此処で一緒に食べて行きなさいよ」と皆で誘う。私は誘いを断りにくくなって、同席した。



ブロッコリー、ジャガイモ、ニンジン等、自炊して作った物を、皿に盛り付けてくれたが、どれも煮方が中途半端で硬く、美味しいとは言えなかった。しかし、しばしの懇談を片言の英語で、楽しめたのは良かった。それにしても「台湾の人は、日本人には特にフレンドリーである」と感じるのは私だけだろうか。



私達の部屋は6人部屋。今日の構成は男性4人に、結婚前のオーストラリア人カップルの2人。2人はそんな中でも熱い所を見せつけていたが、他の4人は、それぞれが自分のことに忙しく、他人の行動を気にしている余裕は無かった。




9月20日(日)晴れのち曇り



朝食の時、シリアルを箱からボウルに移そうとして、箱を落としてしまい、満杯に入っていたシリアルの、3分の1程を床にこぼしてしまった。床に直接接していないところは、すくい上げたが、最近は手元が狂ったり、しっかり握れてなかったりで、こういう失敗が多くなった。



AM9:30からブラックタクシーによる市内観光だ。オプションの観光で、一人8ポンド(約1200円)。我々のタクシーは、後ろの客室に小さな椅子を置いて7人乗せていた。「ブラックタクシー」と言うから、黒いタクシーが来るのかと思ったら、赤いタクシーも来た。その件を運転手に問うと「ブラックタクシーと言うのは、通称のブランド名で、俺は赤い車が好きなのさ」と言っていた。



           

              ブラックタクシー



3台のタクシーに分乗して、主にベルファスト市内の北西部?を回り、所々で下りては3人の運転手が交代で話をする。その内容は、「此処ベルファストでは、如何にプロテスタントの名も無い市民が、カトリックの攻撃から自由を守ったか」と言うような話であった。至る所に大きな壁絵が描かれており、その全てが、その時々の事件を描いたものである。



            

             ベルファストの壁絵



私が「これらの壁絵は、何時ごろ描かれたのですか」と問うと「新しい物も古い物もある。壁絵は時々描かれ直している。それも一人のペインターのボランティアによって」と言う事であった。



昨日の朝、ロンドンデリーの市内を、ウォーキング・ツアーで回った時も同じ様な話だったので、同行しているオーストラリア人に尋ねると「昨日の話しは、カトリック側からの話で、今日の話はプロテスタント側からの話です」と教えてくれた。



北アイルランドにおける宗教紛争は、現在は沈静化しているが、ほんの10年前まで続いていた市民にとっては、生々しく忘れられない事件のようだ。北アイルランドは、宗教の持つ意味を、考えさせられる処である。



また虫にやられた。右手に1箇所、左手に3箇所、後ろ首に2箇所、何時やられているのかさっぱり分からない。気が付くとやられていて痒くなり、赤く腫れて、ひどい時は水ぶくれになる。1週間ぐらい過ぎてやっと治まりかけると、また新しく咬まれている。前触れが無いから、防ぎようが無い。



昨日までは、6日間ツアーと3日間ツアーの人々が一緒だったが、今日から分かれて別々のバスになった。6日間コースは11人、3日間コースは7人であった。我々6日間コースは、新しいバスと運転手に代わった。



今日は「ゲーリック・フットボール」の決勝戦がある特別な日である。ゲーリック・フットボールは、アイルランド伝統のスポーツで、国民に最も人気のあるエキサイティングなゲームである。サッカーとラグビーを足した様な、足でけってもよし、手で投げてもよし。従ってゲームの展開が、非常にスピーディである。



その決勝戦と言う事は、日本で言うなら野球の日本シリーズみたいなものであろうか。ガイドを兼ねたドライバーは、運転を始めるや、延々と1時間ほど、ゲーリック・フットボールの話をしていた。そしてどうやら3時ごろに途中のパブに立ち寄って、ゲームの後半戦をTVで観戦することになったようだ。



道中、ノーベル文学賞を受賞したイェイツ(William Butler Yeats)が、こよなく愛したスライゴー(Sligo)に立ち寄り、風景の美しさを垣間見て、魅力の一端を感じた。時間に余裕があれば一泊して行きたい所である。アイルランドは昔から文学が盛んな国であるが、この国からノーベル文学賞の受賞者が次のように4人も出ている。



1,            ウィリアム・バトラー・イェイツ

2,            ジョージ・バーナード・ショー

3,サミュエル・ベケット

4、シェイマス・ヒーニー



           

               スライゴー



その他「ガリヴァー旅行記」のジョナサン・スウィフト、「ユリシーズ」のジェイムズ・ジョイス、「吸血鬼ドラキュラ」のブラム・ストーカー、「サロメ」のオスカー・ワイルド等は、世界的に有名である。



面積、人口が北海道とほぼ同じ位の小国から、これほど多くのの文学作家が輩出されていることは、特筆される事であろう。この国の厳しい気候、やせた土地、過酷な歴史が、国民の関心事を、人間の内面観察に向かわせたのかもしれない



さて、我々が途中のパブに立ち寄って、TVによる「ゲーリック・フットボール」の観戦をしていた時、最後のクライマックスに入った所で、TVの画面が消えるハプニングがあった。パブの主人は何とか画面を復旧させようと、懸命に頑張っていたが、復旧したのは20分後ぐらいであろうか。



その間、誰も席を立つことなく、主人のリモコン操作を見守っていた。結局勝負は、ケリー(Kerry)の勝ちで終わった。「ケリーの町は、祝勝会で、これから数日間、大変な騒ぎになるであろう」とドライバーが話していた。



今日の宿泊はゴールウェイ(Galway)だ。ホステルに着くと6人部屋に5人のオーストラリア人を中心とする女性と一緒の部屋になった。黒一点である。オーストラリア人旅行者が、どうしてそんなに多いのか。理由の一つは、年次有給休暇が6週間あり、翌年にも繰り越せるので、2〜3ヶ月間の旅行は、それ程難しい事ではない。



第2の理由は、結婚前に、世界を見て歩く事を、親が奨励し、社会も当然視している、等の理由が挙げられるだろう。そして第3の理由として、英語がネイティブだから言葉の問題が無い。日本人が英語学習に費やす額と、時間は大変な物だろうが、オーストラリア人にとっては、それがゼロだ。



だから学生時代からアルバイトをし、社会に出て2〜3年働いて貯金をすると、世界一周旅行も不可能ではないと言う。更に、彼らオーストラリア人は、イギリスや、カナダで仕事をしようと思えば、明日からでも可能である。だからもし旅行費用が足りなくなったら、旅行先で仕事を見つけることができる。



ところが日本人が海外で仕事をするには、英語の習得から始めなければならず、しかもどんなに頑張っても、ネイティブほどには上手くならない。この点のハンデ・違い・差は大きすぎる。普通のオーストラリア人青年なら、誰でも出来る長期海外旅行が、日本人には困難である理由が、やっと解けて来たような気がする。



夕食は近くのパブへ。私はアイリッシュ・シチュー(13ユーロ、約1700円)と、ハイネケン・ビールを注文した。日本で食べるシチューと、それ程変わりは無かった。私は夕食だけで失礼したが、若い人達は遅くまで楽しんだようだ。皆が帰ってきた時は、私が寝ているし、私が起きる時は、若い人達がまだ寝ている。




    

9月21日(月)小雨のち晴れ



今日からアイルランドの南部だけを回る、3日間ツアーの人達と合流した。11人しか居なかった6日間ツアーだったが、バスは満席になって発車。商売繁盛だ。このバックパッカー・ツアーの会社は、色々なタイプのツアーを企画しているようで、あちこちで同じデザインのバスを見かける。合流した人達の中には、台湾人の5人グループや、USAの各地からの人が目に付いた。



ゴールウェイの港を車窓から眺めていると、船体に「マリア・テレサ(Maria Telesa)」と書かれた、結構大きな船が浮かんでいた。マリア・テレサは確かフランスの女帝だったと思うが。



この日、最初に見学した古城、ダンガイアー城(Dunguaire Castle)で、アイルランド民謡等が納められているCDの3枚セットを購入(17.95ユーロ、約2400円)。帰国してからのお楽しみである。海外旅行した時、その国の音楽CDを購入する事が習慣になってきた。



           

               ダンガイアー城  



聞いた瞬間に、買って来て良かったと思う物(カナダのケベックで購入)、何度か聞いているうちに、段々馴染んでくる物(エジプトからの帰りに、ドーハ空港で購入)、何度聞いても馴染めそうも無いもの(中国の上海で購入)等、色々あるが、旅行の思い出には、安くて軽く、良い買い物だと思う。



バスの運転手は、アイルランドの歴史を話しながら運転している。よくもそんなに長い間、喋っておれるものと感心している。運転手に「運転しながら良くそんなに喋れるね、私にはとても出来ないよ」と言うと、「有難う。でも狭い道路や、危険な所を走り、運転に集中する時には、音楽を流したりしているよ」と言っていた。



それにしても随分B&BBed and Breakfast:朝食付き宿)が目に付く。観光のポイントに指しかかると、1分おき位に看板が出ている。そして多いところでは、通りの一角に、例えば10軒ほど、B&Bが並んでいたりする。ホテルを建てるほど需要は無いが、B&Bの需要は多いと言うところか。



今日、二つ目に立ち寄ったのは、道路沿いに建つ小さく古ぼけた石造りの小屋。この中に小さな水溜りがある。これに背を向けてコインを投げ入れ、見事に入れば願いがかなうと言われている。イタリアのローマにも似たような物(トレビの泉)があった。ツアー参加者が次々とトライしているが、結構失敗する人が居て、成功率は6割ぐらいであった。



           

             アイルランド版・トレビの泉



この辺りの地層は、ライム・ストーン(Lime stone:石灰岩)がむき出しになっている。所々に草が生えてはいるが、コンクリートの道路に、時々草が生えているようなもので、強い海風に飛ばされて、草の種も根付かないようである。そういう光景のバレン(Burren)海岸に立ち寄った。私は強風に吹かれて岩場につまずき、バランスを崩して転んでしまった。手に持っていたカメラを壊さずに、手首に軽い傷を負っただけで済んだのは幸運であった。



           

               バレン海岸



本日の圧巻はモハーの断崖(Cliffs of Moher)。海面から200mの高さの断崖絶壁が、8Kmにわたって大西洋に突き出している。上空は青く晴れているのに、雨粒が落ちてくる。波が強風に吹き上げられて、海岸から数百メートルもの陸地まで、泡となって飛んでくる。



           

                モハーの断崖



確かに地の果てを思わせる圧巻であり、アイルランドを紹介した本には、必ず出てくるアイルランド観光のハイライトである。観光客は「この先、危険!」の立て札を何カ所にも見ながら、そして風に飛ばされそうになりながら、この景色を写真に収めるのである。



今日の泊まりはディングル半島(Dingle Peninsula)にあるホステル。6人部屋に、台湾人5人(その内、男1人)と小生。部屋に荷物を置くや、ホステル併設のバーで夕食。私はビーフ・バーガーをハイネケン・ビールで飲み込む。14ユーロ(約1800円)也。



食事中、ニュージーランド人女性に「ニュージーランドも日本と同様、四方が海に囲まれているのに、シーフードが少ないのは、どうしてなのだろう」と聞いてみた。彼女の答えは「海に出て魚を取るよりも、陸上で牛や羊を育てる方が簡単だから」であった。「一理あるかも」と思った次第。




9月22日(火)小雨後晴れ



午前中は、ディングル半島巡り。この半島には、3千年以上前から人間が住んでいた跡が色々な形で残っている。最初に見たのは、蜂の巣小屋(Beehive Settlements)と呼ばれる物。これは、山の斜面に点在していて、蜂の巣型に石を積み上げた住居である。



          

                 蜂の巣小屋



バスから降りて、蜂の巣小屋に近づくと、「2ユーロ」と書いた木札が立っていて、遠くの家から老婆が「サンキュー」と言っている。私達の数人は、石小屋の中まで覗いてみたかったので、2ユーロを鍋の中に入れた。



古来、住居はその土地にあるものを利用して作られて来た。日干しレンガ、巨石、木材、木の葉、洞窟等、色々あるが、此処に見られるような、それ程大きくない石を、無数に積み上げて作られた住居も珍しい。暫く見学してバスへ戻っていく時、再び遠くの家から「サンキュー」と言う老婆の声が聞こえて来た。



ディングル半島の最西端、スリア岬(Slea Head)に来ると、白亜のキリスト像があった。光の中で輝く像の白さが印象的である。



           

               白亜のキリスト像     



次に立ち寄ったのは、アイルランドでは滅多にお目にかからないビーチである。がけの下へ降りていくと、まずまずの浜辺になっている。しかし満潮時には砂浜は隠れてしまいそうである。波が荒いので泳ぐ事は禁物であろう。しかし、そういう中で泳いでいる壮年が一人居た。背の立たない所まで行って、荒い波の中を、泳いで来た所を見ると水泳の達人らしい。



            

             映画「ライアンの娘」のロケ地



我々のツアー仲間は、海水に足を付けたり、浜辺でジャンプして、はしゃぐ姿をカメラに収める事が精一杯であった。私はここで末娘から依頼されていた砂をゲット。お土産のミニマムを確保した。この浜辺は映画「ライアンの娘」(Ryan’s Daughter)のロケ地になったと、ツアーのパンフレットに書いてある。



           

              ライアンの娘達?



「ライアンの娘」は、「アラビアのロレンス」「ドクトル・ジバゴ」で有名なデビッド・リーン監督の作品である。アイルランド西部に位置する、ディングル半島の雄大かつ過酷な自然と、1916年頃のアイルランド独立運動を背景に、ロマンスを取り入れた、なかなか見応えのある映画である。もっとも、完成当初の評判は芳しくなかった様だが。



昼食は、バリーフェリター(Ballyferriter)の村で。「シーフード・レストラン」と書かれている店に入り、焼きガニ(Baked Crab)を頼んだ。蟹の姿焼きでも出てくるのかと、楽しみにしていたが、結果は、蟹の身をほぐして、何かと混ぜた物を焼いてあった。それにポテトチップ。これをコーラで飲み込む。少々がっかりの15.45ユーロ(約2000)でした。



レストランでラジオ放送を聞いていると、最初にゲール語で、後から観光客向けに英語で放送されている。このディングル半島地域は、ゲール語が日常語だそうで、道路標識も、ゲール語と英語が併記されている。その様な地域をゲールタクト(Gaeltacht)と言う。



午後はキラーニー(Killarney)へ。キラーニー国立公園の入り口を散策し、トルクの滝(Torc Waterfall)を見た所で引き返す。その後、オプションの乗馬に挑戦。国立公園の美しい景色を見ながら、約1時間の乗馬である。初めての体験で、それなりに楽しめたが、「もう沢山だ」と言うのが正直な感想だ。



           

               キラーニー国立公園



馬が急ぎ足になると、馬のリズムにお尻の上下を合わせられずに、馬の背中にお尻がぶつかる為に、まずお尻が痛くなってきた。次に被っているヘルメットの大きさが合わず、頭が締め付けられて痛くなった。そして馬に揺られていたせいか、船酔いをした時の様に気分が悪くなり、最後は、馬から下りる段になって、右足がつりそうになったのである。無理な姿勢が招いた物と思う。女性インストラクターの騎乗姿は、馬に馴染んで無理が無く、あんなに美しいのに。35ユーロ(約4700円)の出費は予算外でした。



           

               初めての乗馬



馬と言えば、アイルランドは世界でも有数の馬産地で、アメリカ、オーストラリアに次ぐ第3位である。地理的にも近いことから、「イギリスの競馬」と非常に密接な関係を築いている。種牡馬成績は、イギリス・アイルランドを合わせた形式で発表されており、もはや、イギリスの競馬と一つと言っても過言ではないそうだ。



今日の宿はキラーニーの町である。予定のホステルに行くと、全員は収容できなかったようで、私を含めて8人が、近くのホステルへ移された。ホステル間の融通は簡単なようだ。「ツアーの方ですね?」と聞かれるだけで、名前も書かずに部屋のキーをくれた。私の部屋は女性3人と私の4人。



夕食は今日も皆でパブへ。チキンカレーとハイネケン・ビールで18ユーロ(約2400円)也。ツアー最後の夜という事で、若い人達はこの後クラブに繰り出し、朝まで歌って踊っていたようだ。余ったエネルギーを使い果たすかのように。吾人には、そんな余分なエネルギーは無い。夕食を済ますと、さっさとホステルに戻った。




9月23日(水)晴れ



朝食は、本来宿泊が予定されていたホステルで、取るように言われた。行ってみると狭いキッチンに人が溢れていた。こういう時は、お互いに譲り合いながらも、サバイバルゲームを思わせる。小さな椅子に二人掛けしたり、立ち食いしたり、なんでも有りの光景を呈する。バックパッカーの逞しさを見る事が出来るのである。



本日最初の観光は、ブラーニー城(Blarney Castle)。この城の屋上の城壁の一角にある石(Blarney Stone)にキスをすると、雄弁に成れると言う伝説があって、希望者は、係りのおじさんに支えてもらいながら、仰向けに身を乗り出してキスをする。かなり無理な姿勢である。その瞬間は自動的に写真に取られていて、1枚10ユーロ、2枚18ユーロで売られている。何事も商売だ。



                    

     ブラーニー城−1             ブラーニー城−2



私は他人が挑戦している写真を取ってみたが、アングルが悪く期待したポーズは取れなかった。その後散策しながらブラーニーの家を見に行ったが、その庭の広大で美しい事!今も勿論きちんと手入れされている。私が驚いたのは、何かの映画でこの家を見たような気がしたからだ。確かな事は分からない。



                    

     ブラーニー城−3            ブラーニー城−4



バスの運転手は、相変わらずアイルランドの歴史を語りながら運転している。1922年のブリテンとの条約が、その後のアイルランドに大きな影響をもたらしたようだが、詳細は帰国後の課題とする。マイケル・コリンズとかIRAIrish Republican Armyアイルランド共和国軍)とか言っていた。



フリー百科事典のウィキペディア(Wikipedia)には次のように書かれている。

「マイケル・コリンズ(Michael Collins 189010月16 - 19228月22)はアイルランドの指導者。アイルランド独立運動を指揮し、アイルランド議会の財務大臣、IRAの情報部長、アイルランド国軍の司令官、英愛条約交渉においてはアイルランド側の代表の一員などをつとめた。1922年、アイルランド内戦のさなかに暗殺された。一種独特のカリスマ性を持ち、生前から人気の高かったマイケル・コリンズは死後、フィナ・ゲール党およびその支持者たちによって独立運動における「殉教者」として英雄視されるようになる」と。



PM1:00過ぎにランチタイム。スーパーでサンドイッチ、菓子パン、リンゴを購入するも、菓子パンとリンゴで、お腹一杯になってしまった。私が食べているところへ、USAからの女子留学生二人が来たので懇談した。



彼女らは「ミネソタからイギリスのニューカッスルに来て、コミュニケーションを勉強中のクラスメイト」。コミュニケーションの内容を聞くと、「家族とのコミュニケーション、地域の人とのコミュニケーション、海外の人とのコミュニケーション等、色々な分野があり、4年間勉強します。USAに帰ったら教師になるつもりです」と。



同じ英語を話す国に留学する意味は?「海外で学ぶ事に意義がある」と言う。学生の総数は?「33人です」と。こんな小さな大学が日本には有るのかしら。それに、コミュニケーションだけで、4年間も勉強する大学がある事も、聞いた事が無い。



日本人が海外の人とのコミュニケーションを学ぶには、それ以前に語学の習得が前提になる。海外では「日本人の英語べた」の印象が定着しているようで、私のようなレベルでも「他の日本人に比べるとウマイ」と言うような事を時々言われる。喜ぶべきか、悲しむべきか、複雑な心境である。



今回のアイルランドツアーの締めくくりは、スタウトという種類の黒ビールで有名な、ギネス(Guinness)本社の見学であった。世界120ヶ国以上に輸出していると言う。確かにダブリンの町を歩いていると、あちこちでギネスを飲み交わしている姿を見かける。しかし、今回のツアー仲間で「ギネスが好きだ」と言って、お替りしたのは、ニュージーランド人青年一人であった。飲み慣れればもっと旨いと思うのかもしれないが、私は、ラガービールの方が飲みやすい。



           

               ギネス本社にて



日本のキリン、アサヒと比べてどのくらいの大きさなのだろう。売上高や利益を比べれば大体分かるのだが。(ある統計では、キリンが世界の第6位、ギネスはベスト10に入ってなかった)今年は「ギネス創業250周年」と銘打って、更に売り上げに力を入れているようである。ギネスが此処まで繁栄したのは、マーケティング、広報宣伝の力によるものであろう。色々な社会事業に参加し、スポーツのスポンサーにもなっている。



私がより興味を持っていたことは、ビールよりも「ギネスブック」の方であった。聞くと、他の多くの関連グッズと一緒に、ギフトショップで売られていた。2010年版が、20ユーロ(約2700円)。世界一の長寿者として、日本人の写真と記事が小さく掲載されていた。当然ながら、この本は「毎年改訂される」事が確認できた。



我々の「6日間・アイルランド周遊のバックパッカー・ツアー」は無事ダブリンに戻り終了した。参加者は、また夫々に散っていくが、私たち10人ほどは、ダブリンで最初に泊まったホステルに宿を取っていた。チェックインを済ませてから夕食に繰り出す事に。



今夜の部屋は4人部屋。男性3人に女性1人。狭い階段を大きなバッグを抱えて3階まで上がった所だ。アイルランドのホステルは、男女の相部屋が原則のようだ。イギリスでは男女別々の部屋であったが。どういう違いが背景にあるのだろうか。



夕食はイタリアン・レストランへ。私はシーフードパスタを注文した。出てきた物は、鮭の入ったパスタ。味が中途半端でこれが専門店の味かと、コックの力量を疑いたくなった。皆、昨夜の夜更かしと長旅で、疲れているようだ。



私は、アイルランドに来る楽しみの一つに、本場のアイリッシュ・ダンスを見ることを考えていた。しかし、なかなかチャンスが無い。残された時間は今夜と明日だけだ。ホステルの受付で「どこかでアイリッシュ・ダンスを見ることは出来ないだろうか」と問うと「近くのホテルでやっているはずだ。開始は夜の8時半か9時ごろだろう」と言う。



私は夕食後、一人でそのホテルを目指した。しかし、なかなか見つからない。それもそのはず、1階がパブになっていたので、ホテルとは気が付かず、通り過ぎていたのだ。中に入ってみると、確かにパブのようであるが、踊っている様子は無い。



私が「此処でアイリッシュ・ダンスが観られると聞いてきたのですが」と受付で問うと「はい、観られますよ。10時から10時半までの30分間です」と言う。余りに開始時間が遅いので、観るのを諦めてホステルに帰った。アイリッシュ・ダンスは、地元の人にとっては、大きな関心事ではなさそうである。「ああ、そう言えば、そんなものも有ったかな」位の反応で、楽しみにしていた私にとっては少々、いや、大いにガッカリである。




9月24日(木)晴れ



朝食後、ツアーで一緒だったメンバーが次々と帰って行く。私の事は「マサ」と呼んでくれていたが、私は結局一人の名前も覚えないで終わった。日本人の名前さえ覚えられないのに、ましておやだ。笑顔で握手をしながら、「互いに良い旅であります様に」と言い交わしてお別れだ。



昨晩の夕食の時に、ニュージーランドの青年が、「ダブリンの市内見学をするのだったら、3時間のウォーキング・ツアーがありますよ。ボランティアでやっているので、料金は決まっておらず、チップをあげるだけです」と教えてくれた。私は「それはいい。是非それに参加しよう」と決めていた。



ホステルの受付で、この件を確認すると「うちとは関係の無いNPOがやっているようです。トリニティ・カレッジ(Trinity College)の前をAM11:00に出発します」と言って地図を描いてくれた。私はその地図を持って、トリニティ・カレッジを目指すことにした。



ホステルを出る時、珍しく日本人女性(30才位)に会った。彼女は「小泉八雲の住んでいた家を探しています」と言う。私は、「受付で聞くと良いですよ」と言って出発した。後から調べたら、小泉八雲がダブリンで生活していた家が、今もホステルになって残っている。グローブトロッターズ・ツーリスト・ホステル(Grobetrotters Tourist Hostel)がそれだ。



小泉八雲は日本名だが、以前の名をパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)と言った。40才で来日して島根県の師範学校の英語教師から、やがて東京帝国大学の英文学講師にまでなり、54才で他界するまで種々の著作物を残している。そんな彼の研究をしたり、ファンになったりする人が居ても不思議ではないが、私はアイルランドに来ても、彼のことが全く念頭になかっただけに、ダブリンで日本人女性から、彼の名前を聞いた時は、新鮮な驚きであった。



さて、私はトリニティ・カレッジまで、もう少しの所まで来ている筈だが、確信がもてなかった。そこで、客待ちをしている、タクシーの運転手に地図を見せて、「此処に行きたいのだが」と言って教えを乞うた。すると「そこは、あの橋を渡って左に行った所だ」と言って、来た道を戻る方向を指示する。



私は「おかしいな、そんな方向ではないと思うが」と何度も確認するが、向こうは確信を持って断定する。私は、やむなく指示された方に歩いて行き、200メートルほど行った所で、また別の人に聞いてみた。するとやっぱり私の思っていた方向に間違いなかった。



海外に行くと、必ずこの手のいたずらに出くわす。目的地、それも有名なランドマークの、100メートルか200メートルのところまで来て、尋ねているのだから、地元の人間なら、間違えたり、知らなかったりするはずが無いのに、あえて嘘を教える。根性が悪いとしか言いようが無い。



行ったりきたり無駄な時間を使ったが、丁度AM11:00に、トリニティ・カレッジの正門に着いた。今日は大学の学園祭のようで、多くの人で賑わい、どの人がウォーキング・ツアーのリーダーなのか見当が付かない。ここでもまた2度、3度訪ね歩いてやっとそのリーダーにたどり着いた。ツアーリーダーは30歳位の女性で、その回りに10人ほどの人が集まっていた。



          

              トリニティ・カレッジ  



ツアーは、トリニティ大学構内、アイルランド銀行本店、ダブリン市議会議院、ダブリン城等を見学。その間の2時間余り、彼女は喋りっぱなし。しかもその内容は、昨日までの、6日間のバックパッカー・ツアーで聞いた、アイルランドの歴史であった。同じ内容を2度聞くと、リスニングの弱い私でも、幾分多くの内容を理解できるようになる。



           

               ダブリン城跡



ツアーガイドが「これで終わります」と言うと、皆が財布からお金を出し始めた。「きっと、チップを渡そうとしているのだな」と思って見ていると、意外と多額のお金を渡している。しかも夫婦で参加している人は「二人分」とか言って。更に意外だったのは、ツアーガイドが領収書を渡している。



「幾らなんですか」とそばに居た壮年に聞くと、「12ユーロ(約1600円)です」と言うではないか。これではチップとは言わないだろう。しかし、私だけ「よく聞き取れなかったので半額にしてくれ」とも言えず、おとなしく支払ってきたのでした。



旅行ガイドブックを読んで、後から分かった事には、「このツアーは、ヒストリカル・ウォーキング・ツアー(Historical Walking Tour)と言い、トリニティ・カレッジ歴史専攻の卒業生が、ダブリンの歴史を、説明しながら案内してくれるツアーだ」と言う事だ。料金も12ユーロと書かれていた。すると昨夜、夕食の席で、ニュージーランドの青年が言っていた事は、何だったのかな?もう彼は旅立ってしまったから、確認の仕様が無い。



アイルランド最後の夕食は、昨晩と同じ店に行って、少し豪華に牛肉のフィレステーキを注文した。18.95ユーロ(約2500円)也。出て来たのは、なかなかナイフが通らない硬い肉と、マッシュポテトの回りに、ソースをヒタヒタになる迄かけた物であった。又しても期待はずれ!とうとうアイルランドでは、美味しい料理には出会えなかった。



ジャガイモぐらい、美味しく食べさせてくれても良いと思うのだが。脂ぎったポテトフライか、水っぽいマッシュポテトにするしか、方法が無いのであろうか。私はふかしたジャガイモに、バターを付けて食べるのが好きだが、そういう料理には出会わなかった。



ジャガイモと言えばアイルランドの歴史の中では、ジャガイモの飢饉による悲劇が忘れられない。その飢饉の被害を大きくした原因は、ジャガイモに頼り過ぎていたと言うのであるが、「この国の痩せた土地を見れば、ジャガイモぐらいしか、まともには育たないであろう」とも思うのである。悲劇は起こるべくして起きている様に思う。



ホステルに戻って、「今日の部屋は、私一人なのかしら」と思いながら、シャワーを浴びて歯を磨いていたら、部屋の扉を開けようとする物音がする。暫く聞いていたが、どうやらオートロックのキーが旨く作動しないようだ。私は気の毒に思い内側から扉を開いてあげた。



入ってきたのは女性で、「鍵が旨く開かずに困っていました。有難う御座います」と喜んでくれた。又してもオーストラリア人で、幼稚園の先生だったという。過去形で言うのは、仕事を辞めて旅行に出て来たからである。旅行期間は半年間であると言う。



「旅行が終わったら、また新しい仕事を探す事になるが、幼稚園の先生の仕事は、すぐに見つかると思います」と言っていた。オーストラリアの青年たちは、再就職について一様に楽観的である。



今日の日記は、此処までにして置こうとも考えたが、やはり書いておく事にする。実はハプニングがあったのです。深夜3時頃だったと思うが、私はトイレに行きたくなったので、静かにポーチをつかんで室外に出た。用を足して部屋に戻ろうとしたらキーがポーチに入ってないではないか。



私は大事なものは全てポーチに入れておくようにしており、いかなる時もポーチだけは持ち歩いているのである。ところが、この時に限ってキーはズボンのポケットに。そして急いでいた事もあって、ズボンをはかずに室外のトイレへ駆け込んだ次第。気が付いた時は後の祭り。



このまま室外で朝を待つのはつらすぎるし、受付に助けを求めるには、一度建物から出て、隣りの建物に行かねばならない。「万事休す」とは、こういう事態を言うのだろうか。私はエチケットと現実のハザマで迷った挙句、眠っているであろう相部屋の彼女に助けを求めた。「トントントン、ソーリー、トントントン」小さな音と、小さな声で必死に訴えた。



幸運にも彼女は気づいてくれて扉を開けてくれた。暗闇の中で、彼女の姿は良く見えなかった。しかし、私には彼女が妖精(Fairy)のように思えた。アイルランドには、沢山の妖精がいると言われるが、今まで出会う事は無かった。実に幸せな事に、私はアイルランド最後の夜に、本当に美しい妖精に会うことが出来た。




9月25日(金)晴れ



AM6:00起床、まだ妖精(オーストラリア人女性)は睡眠中。気の毒だが電気をつけて、取り敢えず荷物を全部室外に出す。洗顔、シリアルとトーストの朝食、チェックアウトを済ませ、徒歩3分のバスセンターへ。



AM7:00バスセンター。待合室には既に多くの人が居た。AM7:30、ダブリン港行きのバスに乗る。AM7:40ダブリン港に到着。Eメールで取得済みのEチケットを、乗船券と交換。大きな荷物を預けて待合室へ。特にボディーチェックや、荷物検査はなかった。しかし、ロビーで待機中に、麻薬探知犬を連れた係官が歩いて来た。すぐ近くに居た若い男の所で、犬が動かなくなった。その男は別室へ呼ばれて行った。



AM8:45ダブリン港出発。高速フェリーの為か、若干揺れが大きいように感じる。しかし、パソコンを叩く事に支障は無い。ダブリンへ行く時は普通速のフェリーだったので3時間15分要したが、帰りの今回は、2時間でアイリッシュ海を渡ってしまった。イギリスとアイルランドは、それ位の距離である。



AM10:45快速フェリーが、イギリス西岸のホリーヘッド港(Holyhead)に到着。パスポートのチェックと、「この後、何処に滞在して、何時日本に帰るのか?」との質問。「チェスターとロンドンに滞在し、10月2日に日本へ帰ります」と言うと「OK」と言われて無事入国。空港でのチェックと同様だが、この港でのチェックは、通路に係官が立ったままで行っている。従って、入出国を記録する、パスポートへのスタンプは無い。



12:38発の列車が到着するまで、1時間半ほど余裕がある。待合室のベンチでパソコンを叩く。携帯用のパソコンは、何処ででも使えるのが便利だ。少し時間があると、取り出しては叩ける。菓子パンと紅茶を売店で購入し、食べ終って12時20分頃、ホームを見ると列車が止まっていた。「まだ発車までは大分時間があるはずだが」と思いつつも、確認すると、やはり我々の列車であった。



列車は定刻にホリーヘッド駅を発車。「定刻どおり」を英語では「ON TIME」という。電光掲示板にこの文字があると安心する。チェスターまでの間に、乗り降りする人は、たくさん居たが、指定席が取れていたので心配はなかった。



14:15チェスター到着。ここは1週間ほど前、乗り換えの際に、大きなバッグを持っていかれた駅である。そういう意味で私にとっては、記憶に残る特別な駅である。この駅では、改札できちんと切符のチェックをしている。イギリスの他の駅ではしていないのだが。既に馴染みのあるトイレに立ち寄り、インフォーメイションに行って、インターネットで予約済みの、今夜の宿への行き方を尋ねる。



「タクシーで2,3ポンドのところだ」と教えてくれた。タクシーの運転手に、住所の書かれた印刷物(ネットで予約した時に印刷しておいた物)を見せると「了解」と言って発車。14:30B&Bに無事到着。メーターは3.70ポンドを示していたが、4ポンド払って降りた。



ベルを鳴らすとドアが開いて60歳ぐらいの主人が出迎えてくれた。「日本から来ました」と挨拶をすると「分かっています」と言う。「あなたの部屋は2階の4号室で、こちらが家の鍵、こちらが部屋の鍵。朝食は8時。宜しいかな?」とそれだけ言うと、「早く2階へ行ってくれ」と言う様な雰囲気だ。



初めてB&Bを利用する者としては、もう少しフレンドリーさが欲しい。が促されるままに2階の自室へ。一人用のベッドと小さな机、それにバスタオルとハンドタオルが置いてあるだけの、狭い部屋だ。床はデコボコでミシミシいうし、とても新しい建物とは言えない。しかし部屋に併設されているトイレとシャワーは、綺麗だ。いかにも自宅を改造して作ったと言う感じである。



日本で言うとペンションがこれに当たるだろうか。ユースホステルとの違いは、何と言っても個室である事でくつろげる。早速シャワーも浴びたいが、太陽の高いうちに町を見ておきたいと思い、荷物を降ろすと、すぐに外出する事に。



オヤジに「町を歩きたいのだが」と言うと、一緒に外へ出て来て「そこを右折して、少し行った所を左折すれば、その通りが街のセンターに行く道である」と教えてくれた。よく見ると、そこからガイドブックに書いてあった城壁が見えていた。このB&Bは、市内観光には、とても便利なロケーションにあった訳だ。



教えられた通りに歩いていくと、城壁への上り階段があった。「まずこの城壁を一周すると良い」とガイドブックに書いてあったので、城壁の上にあがってみた。そこは人が楽にすれ違えるほどの広さで、三々五々観光客が歩いていた。



            

              チェスターの城壁



「この城壁が最初に築かれたのは、今から2000年前のローマ時代、場所によっては12〜13世紀に再建された」とガイドブックに書いてある。見るからに年代を感じる。シャッター・チャンスが多く、ゆっくり一周したら、丁度1時間経っていた。



城壁の上からは城壁の内側と、外側を見ることが出来る。内側は、由緒ある教会や建造物を残しながらも、新しい町になっており、外側には川が流れていたり、広くて綺麗な競馬場があったりして、とても魅力的な街であった。今日はこれ位にして、明日の午前中、ロンドンへ発つ前に、城壁の中を歩く事にした。



           

              チェスター競馬場



夕食は、明日の朝食に期待して、サンドイッチと紅茶でお仕舞い。そして通りの八百屋を覗くと、色々なリンゴが置いてあったので、「この中で一番美味しいリンゴを1つ下さい」と言ったら、「このリンゴだ」と教えられた物を1個買った。70セント也。それを洗ってもらって、かじったら、本当に美味しかった。リンゴの美味しいのに出会うと元気になる。後はB&Bに戻って、心行くまでシャワーを浴び、ゆっくりとパソコンを叩いた。



                     

     B&Bのベッド              B&Bのシャワー



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